馬場研究所

わたしの履歴書(抜粋):
馬場研究所 代表 那須路郎(a.k.a. 馬場英治)

1982年(34歳)横浜市の工学技術研究所(神奈川区松本町1-2-4牧野ビル3F)に入社 プログラミング経験ゼロだったが面接当日に簡単な手ほどきを受けるとその場でパソコンに向かいプログラムを書き始めた

1983年 在籍一年で工学技術研究所を円満退社 独立して馬場システム研究所(のち馬場研究所に社名変更)を創業 工技研社長坂田氏の計らいで松下通信工業株式会社教育システム設計室と直取引開始 「馬場研究所」の社名は歯車式コンピュータの発明者 Babbage のもじりで馬場英治を名乗っていたことに由来する

1990年4月4日 隣村の女性と再婚して帰郷,ダイアパレス深谷(深谷市稲荷町1-7-5)303号を本店所在地として株式会社馬場研究所を設立

1994年4月25日 バブル崩壊のあおりで売り上げが立たず,ダイアパレス深谷303を任意売却 さくら銀行深谷支店会議室にて債権者との手打ち式(さくら銀行は深谷市から撤退)事務所を現住所に移転 二番目の妻と別居後はここが住まい兼事務所となる

1996年2月8日(50歳)「ハミルトン閉路問題の一研究 検定グラフを用いたハミルトン閉路問題の解法,あるいは幸運をコントロールする数学的に証明された方法について」を脱稿 この草稿は海外のグラフ理論コミュニティで回覧され,Wikiからもリンクされて広く閲覧された

1996年4月 河出書房新社と系図作成ソフト「系図物語」を共同開発 プロトタイプは早期に仕上がっていたがマルチメディアに手を付けることの社内的抵抗は根強く,企画の推進者であった取締役編集部長のK氏は取締役会で解任されプロジェクトは陽の目を見ることなくアボートした

1996年8月 東京駅が日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の煉瓦を使用していることにちなみ東京駅を模して改築された深谷駅の橋上駅舎が完成 深谷駅から馬場研究所に続く遊歩道は煉瓦輸送のための引き込み線

1996年11月5日 松下電器産業㈱水野博之副社長の計らいにより松下電器知財センターの財政的支援を受けて「数式入力」に関する米国特許(No. 5572642)を取得 特許手続きが遅滞していたため米国特許庁審査官フェイルド氏との面談を企図して渡米 帰途イリノイ大学コンピュータサイエンス学部C.L. リュー教授(「離散数学入門」の著者)の自宅を訪ね中華レストランでもてなしを受ける

1997年4月 埼玉工業大学専門学校(深谷市上柴町西2-1-8)情報処理学科マルチメディア科非常勤講師に就任

1999年12月 「系図物語」の後身「ゼルコバの木アルファ版」プレリリースキャンペーン開始

2001年3月 離散数学論文「強推移的グラフと完備グラフ予測」をメーリングリスト Theory-Edge に発表 21世紀初頭ネット上に現れた Free Science の活発な動きはアカデミーにかなりのインパクトを与えた

2001年3月 埼玉工大専門学校が廃校となり失職 アートマンソフトウェアの星原浩一氏より五用設計(青梅市天ヶ瀬町1193-3)を紹介され,IHI航空宇宙事業本部技術開発センターの仕事を受注

2002年8月 「バージの完備グラフ予測問題」がチュドノフスキー,ロバートソン,セイモア,トーマスの4人組によって解かれた 同年10月 ARCC(American Research Conference Center)主催で5日間連続のワークショップ(定員30名)がカリフォルニアのパロアルトで開催され参加を希望したが慇懃に断られた

2005年12月 五用設計の契約社員として立川市上砂町5-64-6サンパレス上砂203号室に移動 仕事がなくても月10万円支給という条件だったが請負仕事が出るまで無給で待機することにした ほどなく産総研(産業技術総合研究所,茨城県つくば市梅園1-1-1)エネルギー技術研究部門熱電変換Gから熱探索針を用いた熱特性マッピング装置の仕事を受注

2007年 このあと五用設計からの発注は途絶え,支援者からの資金援助も止まって収入ゼロの月が続いたため7月に預金が底を突いてから3ヶ月で餓死寸前の状態に追い込まれる 五用設計斎藤昭仁氏から支給された移転費用5万円で荷物を発送し上砂を撤収して自転車で稲荷町に戻る この体験から人間は食べなくても100日間は生きられることを確信

2007年11月11日 ゼルコバの木ユーザ会発足 ユーザ会名義の郵便貯金口座を開く

2007年12月 IHIからマイクロマシンガスタービン計測システムの仕事を受注 テストは東北大学工学部知能機械系江刺研究室で実施した

2008年12月 友人の農家に5日間泊まり込みで援農 報酬として古古米8袋240kg この米はコクゾウムシとノシメガの幼虫の棲み処になっていて全量精米したものの,残っていたノシメガの幼虫に夜中に2度噛まれた

2009年1月30日 真中蓬(筆名,のちユーザ会クラブハウス管理人)から最初のメール「ゼルコバの木ユーザ会参加申し込み」

2009年4月4日 「ゼルコバの木ベータ早出し版」リリース開始 ちなみに,当日発行の『ゼルコバ通信 No.5』の副題は「男一人女一人いれば世界をもう一度産み出すことだってできる」

2010年5月5日 ゼルコバの木ユーザ会クラブハウスオープン

2012年3月 当時国内唯一のテレビ工場であった東芝深谷工場(㈱東芝深谷事業所,深谷市幡羅町1-9-2)での生産停止

2012年4月3日 東京都西多摩郡日の出町大久野6713-1水口山荘に乗り込み,IHIから受注した最後の案件となるジェットエンジンの燃焼器試験用計測システムの開発に着手

2012年9月 両足かかとを骨折し目白第二病院(東京都福生市福生1980)に救急車で搬送される

2016年2月9日 ネットが止まり,3月8日には電力供給も停止

2018年12月8日(72歳) ネットに復帰 zelkova-tree.net ドメインを買い戻して,更地に「ゼルコバの木テント村」を設営